真冬のミケランジェロ

ささいなことで悩むには、人生はあまりに短すぎる。そう断言されるとなにやら真理めいて聞こえるが、あらゆる問題をそのひとことで片付けられても困る。目の前の問題がささいかどうかは、見る人の立場や経験によって大きく変わる。

たとえば、雪あかりの穴をもう少していねいに掘るべきかどうかという問題は、大多数の人間にとっては取るに足らない問題かもしれないが、これを見世物にしている人たちにとっては、けっしてささいな、取るに足らない問題とはいえないのである。よしんばそれが、吹雪や雨によって一晩のうちに崩れてしまうとしても。

雪あかりの製作は、①雪のかべに穴を掘って、②そこにろうそくの火を灯すという、極めて単純なふたつの工程から成り立っている。ひとつひとつの雪あかりの個性は穴をどのように掘るかによって決まるが、最近では影絵のようなやりかたも増えており、表現の幅が広がっている。毎年町をあげて開催される雪あかりのイベントでも、影絵を利用したアイデア作品は多い。

町のイベントが一日限りであるのに対し、山人は山人で、この時期は毎日のように雪あかりを製作・手入れし、夕食時の一興としている。

一月某日。その日は、筆者をふくめた地元出身の3人で雪あかりをつくっていた。といっても、とくにアイデアがあるわけではなかったので、まずは3人のなかでもっとも先輩であり、スタッフブログでもおなじみのスタッフNの要望のもと、雪の壁を大胆に掘っていく。

ほどなくして、かまぼこ形というのか、横に間延びした半円形の大きな穴ができた。できあがりは悪くないと思っていたが、Nの目にはそうは映らなかったようだ。

「え、なんか、メリハリがないというか……。見てください。こっちの穴にくらべて、完成度が低いですよ」

まさかと思って、もうひとりのスタッフTが掘っていた穴を見やる。なるほど、Nの指摘は絶妙に正しい。Tの掘った穴を見たあとでは、筆者の掘った穴はどこか幼稚で、全体的にメリハリがない。

どこがどうというわけでもない。それは、ほんのささいなひと手間が生み出すちがいなのだろう。Tはもくもくと作業に没頭していた。

“こだわりはいりません。でもていねいさは必要です。どんな小さなことにも。”

少し離れた場所に立って、Nは無言の眼差しを放つ。刺さる。なぜならその眼差しには、いまからおよそ500年前のちょうどこの時期に生まれた、ひとりの偉大な彫刻家の眼差しが重なっていたからだ。

彼の名はミケランジェロ・ブオナローティ。レオナルド・ダ・ヴィンチと並んでルネサンス期に活躍した、あの有名すぎる芸術家である。

ミケランジェロのアトリエに友人がたずねてきたある日のこと。彼はその友人にひとつの彫像を見せると、それが以前に見せたときと比べてどう変わったかを、こと細かに説明しはじめた。ここは手直しして、あっちも磨きこんで、この部分は前よりもやわらかく、あとこっちは筋肉を強調するよう工夫して……。

友人は首をかしげる。「いまおっしゃったことは、すべてささいな問題のように私には思えるのですが」。するとミケランジェロは、こう返した。

「そうかもしれませんが、でも思い出してください。ささいなことが積みかさなって完璧さが生まれるということを。そして完璧であるかどうかは、けっしてささいな問題ではないということを」

彼の仕事観を象徴するような、印象的な言葉である。この逸話は、100年以上前に出版されたサミュエル・スマイルズの著書『自助論』(邦訳は三笠書房)にて紹介されている。

雪像・雪あかりの製作も、一種の彫刻であることにはちがいがない。その日、先頭に立って現場を監督していたNも、きっとそういうことが言いたかったのだろう。神は細部に宿る、と。

しかし、彼女はミケランジェロの眼を持ってはいても、ミケランジェロその人ではなかった。やがてしゃがみ込んでみずからも穴を掘り出したNだったが、いよいよ完成という頃になって、おもむろに立ち上がり、こうつぶやいた。

「私も人のこといえないかもしれない……」

山人の日が暮れていく。一時はどうなることかと心配したが、夕食を担当したスタッフによれば、その日の雪あかりはけっこう綺麗に見えていたそうだ。無論、それで満足する山人スタッフでもないので、次なるアイデアが天から降りてくるのを、いまかいまかと待ち構えている。

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