キノコについて語るときに我々の語ること

前衛的な作品を世に問い続けたアメリカの作曲家ジョン・ケージは、1952年に彼が発表した「4分33秒」の沈黙によって、世界中の音楽家を困惑させた。全楽章にわたって記される「休止」が、曲の演奏時間である4分33秒ものあいだ、楽器とともに何もせずにいよ、と演奏者に伝えている。いったいどういうつもりなのか。

ケージは、1962年に創設されたニューヨーク菌類学会の最初の会員の一人である。作曲家であり、かつキノコ研究家でもあった彼の信念は、「キノコに熱中することによって、音楽について多くを学ぶことができる」というものだった。よくわからない。キノコの毒にやられたのでは? と思われても無理はない。

広く世界を見渡せば、キノコからインスピレーションを受けた音楽家は彼一人ではないらしい。チェコの作曲家ヴァスラフ・ハレクは、森のなかでさまざまなキノコが発しているメロディーを楽譜に起こすということを20年以上にわたって続け、述べ2,000曲以上もの作品をつくった。ケージといいハレクといい、キノコのなにが、彼らをそこまで夢中にさせるのだろう。

拙宅の父も、キノコに愛着を持つ者の一人である。たいていは山とセットにして語られるのだが、筆者が子どもの頃は連れだってよく山に登らされ、その山の地形や、生えているキノコについて説明を受けたものだった。残念ながら当の私は、山のすばらしさやキノコの世界の奥深さを、子ども心には理解することができなかった。正直にいうと、「つまらない」というイメージが、これらに対する筆者の原体験である。そのときに教えてもらったことは、思春期をむかえる頃にはすべて忘れていた。

むかしの自分をもったいないと思う。いまではすっかり山に魅了されている。父が勇んで「キノコ採りに行く」といえば、二つ返事でついていく。かたちはどうあれ、人はいつか生まれたところに帰るようにできているらしい。父の背中を追って山に分け入り、自分が少しずつ山人になっていくのを感じる。

山の達人たる山人の視点からみれば、キノコは、母なる山が持ち合わせているあまたの魅力のひとつにすぎない。しかし、どんなに山を知り尽くした山人といえども、キノコについて知り尽くす者はいない。そうでなければ、ケージがあれほど熱心にキノコについて語ることもなかっただろう。

「キノコを知れば知るほど、それを識別する自信が薄れていくんです、一本一本が違っていますから。それぞれのキノコがそれ本来のものであり、それらの中心にあるのです。キノコに詳しいなどというのは無駄なことです、キノコは人間の知識を裏切りますから」

(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』青山マミ・訳/青土社/1982年)

これはケージのみならず、すべてのキノコ愛好家についてまわる苦悩である。さしずめ問題となるのは、それが食べられるのかそうでないのか、おいしいのかそうでないのかという点についてだが……。

ここ西和賀町では、今週末の10月10日(土)と11日(日)の2日間にわたって、「湯川温泉きのこ祭り」が開催される。キノコに興味がないという方も、当館への宿泊のついでに、キノコ愛の世界の入り口に足を踏み入れてみてはいかがだろうか。音楽の概念をくつがえしたジョン・ケージのように、思いもよらぬ前衛的なインスピレーションが得られるかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です